タイトルからして重たくて読むのに気が滅入るような内容をお送りいたします。
感情が上がったり下がったりジェットコースター気分でお読みくださいませ😁
死んだという表現が苦手な方もいると思うのですが、あえてこの表現をしております。
(まぁ〜理由はいろいろあるけど、そのうちどっかで話そうね。今日は面倒だから割愛😁)
私の母は早くして私を産み、私自身は母の両親に育てられました。
俗に言う、おじいちゃん子、おばあちゃん子と言うやつです。
“孫”ではなく“娘”として今までやってきました。
(戸籍も養女になってるんだ〜😉なのでここから先は、祖父母のこと、父、母と表記します。)
そんな、私の“父親”が昨日死にまして。
感情がしっかりと熱いうちに文字に残しておこうと思い、書いています。
とは言いつつも本心、寝てしまうと父との関係がプッツリと切れてしまう気がして怖いのです。
人はまあ都合の良いもので
当たり前のものには感謝を感じることができず、
当たり前でなくなったと気づいた瞬間に改めてありがたみを感じるものです。
今朝方4時前に息を引き取ったと、聞きまして、何事もなく気丈に仕事をやってのけたわけですが、本日1日のタスクが終了した途端こみ上げるものがたくさんあり、はて、私は父に何ができたのだろう。と考えると、
迷惑しかかけていない。
と感じました。
父は与えてくれるばかりで、私は父に、”多大なる迷惑“しか与えていませんでした。
果たして一生のうちにここまで迷惑をかけられる人間がいるのか。
そしてそれを許す許さないの次元ではなく、ごく自然の事として受け取るというのは、何がどうさせているのか。
深く考えさせられました。
ここ最近、父を含め、身内の死を2回感じました。
この世から去っていくものはその度に、残されたものにメッセージを置いていくのだ思います。
それをずーーっと覚えているかどうかは別として、バッチリ受け取ることができれば、さぞかしラッキーでしょう。
少し前に母の兄弟が死んだ時は強烈なメッセージを受けとりました。(勝手にね、スピリチュアルとかそう言うことじゃなくね。)
この感情を、循環させていこう。
これをまたクラスに生かしていきなさい。と。
そのメッセージ通り、私は翌日からとんでもなくどっしりとしていた記憶があります。
が、しかし。
父が死にそう。と聞いた時も死んだと聞いた時も全く悲しめませんでした。
それよりも何よりも、
「身内が亡くなって悲しくないの?」
と言われることの方がよっぽど恐怖に感じました。
ですが、私自身、母の兄弟が死んだ時と、まるで変わったのが、その感情を友人に打ち明けられた事です。
その時友人は、はるかはさ、生死に対して冷静に受け止める事が出来るんだろうね。
とただ一言。
カッコよかったー。相変わらずイケメン女子だわ。
同情するでもなく、私の感情によりそうでもなく、ただ、彼女は、彼女そのまま、私が放った言葉に対して感じたこと。を伝えたまででした。
生まれて、死ぬ。と言うのは、私たちが必ず通るごく当たり前のルーティーンなわけです。
しかし人は、よく起きることに対してはサラッとしていることができますが、あまり起きない、稀なことに関しては敏感に反応してしまうものなのです。
生死って、稀なことだもんね。対象物が何回も繰り返し行うことじゃないからね。
だからこそ、人は泣くし笑うんですね。
きちんと喜怒哀楽を全うするわけですね。
私は父が死んで、“死ぬために生まれる”と言うごくシンプルなことを突きつけられました。
それはとてもありがたいことであり、私の今後の人生の素晴らしい栄養となるでしょう。
このタイミングででヨーガ・スートラを教えることができるのも非常にありがたく思っています。
父の死によって、私自身にまた厚みが出たと感じます。
死後の世界なんぞは私にはさっぱりわかりません。
みたことないからね。
記憶力は良い方ですが胎児の記憶も一切ありません。
ですが、“今”と言う瞬間を生きている私は、“私自身のために”この生を全うする事が任務であり義務なんです。
私自身の元へ任務終了のお知らせが届くまで、放棄してはならないのです。
生きるって身近だし、
死ぬって身近だよね。
どちらにも感情が一緒にくっついてくるものだよね。
それが私たち、人間というものなんでしょうね。
ここまで読んでくれてどうもありがとう。
まずは今読んだ自分を両手で大きくギュッと抱きしめてほしい。
今誰かが隣にいるのであれば、心から大きなハグをしよう。ギュッと。手でも体でも。抱きしめていこう。
いつそれがなくなるかはわからないよ。
とか言いたいんじゃなくて。
そんなこと言いませんよ。わからないものはわからないもの。
それでいい。
三歩先のことだって予測はできないものだもの。
そうじゃなくって、
今、あなたがギュッと握りしめたいものは何?
愛を込めて♡
悠加
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