あろは〜〜
思いを伝えるとはどういうことなんだろう。
まず。
次に
です。
なーーーんでこんな当たり前の話をしているかというとですね。
「思いを伝える」ってことを、「感情任せにつ伝える」とか、「腹の底の気持ちを隠して表面の言葉を伝える」とかに解釈をしている人がわんさかいるからです。
思いを伝えるのと、忖度をするのは全くの別物です。
というのも、その時はそんな風に思っていなかったのに、あとから、あの時本当はどう思ってたの?という言葉に甘えまくって実はこうだったんだ。。。
って
いやいや、あまりにも自分勝手すぎませんか?
お伺いがなければ一生言わなかったわけですよね。『本心』を。
結果としてそんな後出しジャンケン、相手があなたに対しての信頼はまずもうないですし、込み入った話をしようとも思えなくなるわけです。
きっとね、
実はってその時に言えなかったのは怖かったんでしょう。
傷つくのが。というよりか、核心を突かれることが。
人は図星なことほど受け取るのが嫌いなんですね。
どうにかやり過ごせる方法をいつもでは想像もつかないような情報処理のスピード力マックスになります。
あっぱれです。
尊敬に値します。
ただまあ
誰と誰が仲良くするってのは私には知らんこっちゃない話ですが、
そういう人とは関係性を断ちたくなるのは事実です。
先日、生徒にこの本をプレゼントしました。
彼女は私の生徒であり、誰かの先生でもあります。
口がついている以上、伝えるということは生きていく上では避けられないことです。
そして私たちヨガ講師と言うのは、そんな当たり前のことを口を使って指導に色付けをしていきます。
ではどうして、思いを伝えることが苦手だったりへたっぴになってしまうのだろう。
それは紛れもなく、自分自身を知らないからです。
例えば、好きな食べ物は自分が一番よくわかっています。
初対面の人があなたの大好物を言わないで知っているという可能性はほぼゼロなわけですよね。
私はこの食べ物が好きなんです。
と言って、
相手は「あなたはこれが好きなんだ。」
という認識になります。
思いを伝えるというのはそういうごくごくシンプルなことなのです。
そこには主観も忖度も必要はないんです。
相手が自分の思った通りの返事(要するにそこに”期待”というものが乗っかってしまうと忖度の開始です。)がないかもしれない。とストーリーを作り上げてしまいあーでもないこーでもない。となるわけです。
果たしてそれは本当に自分を守る術なのでしょうか?
傷つくか傷つかないかなんて後から自分で決めていけばいいわけです。
ある時、私は友人に、「はるかは、恋人と深い関係に近づいてくるのを感じるとすごく怖い。傷つけ合うのは避けたい。」と言いました。
すると友人は「何言ってるのよ。何が深い関係が近づくと怖いのよ。人は傷つけあって、話し合って、直しあって、成長するのよ。それはただ単に、人間関係を築く上で向き合うことを放棄するのと一緒よ。」と。
もう、ぐうの音も出ませんでした。
なぜ私は深い関係を避ける〜とまた、都合のいい言葉を並べたのかというとその時私自身とても不利な状況にあったため逃げたくなったんでしょう。
自分にとって不利な状況だろうがそうでなかろうが関係なしに、その瞬間に私は大切な誰かと向き合うことを放棄しました。
それはとても悲しいことです。
いいですか、
思いを伝えるということはたやすいことではないかもしれません。
ただ、自分の大切な誰かとこの先も関係を築きたいのであればそこはきちんとクリアにしていかなければなりません。
どういう時に困るのか、どういう時に嬉しいのか。
自分をしっかりと知り、伝えていく。
思ったこと、感じたことを全部丁寧に伝えなくていんです。
今、自分の頭の中に何回も浮かんでくること、それこそ今とても大切なことなんです。
それだけ伝えることができれば大したものです。
頭がごちゃごちゃしているのであれば、
頭がごちゃごちゃしている。と伝えればよいのです。
何かうまく伝えようとするからへんてこりんなことが起きるのです。
大丈夫。
着飾りすぎず、そのままを伝えていきましょうね。
読んでくれてありがとう。
namaste
悠加
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